【武蔵野の風俗文化研究基礎】其の一 ホテルニューヨーク

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 「童貞か否か」という問いに対しての回答は間違いなく自明ではあるが、今日これからのイベントに関しては一切関連性がないし、待ち合わせの前にフリスクを購入して何粒か勢いよく口に放り込んだ事も、全くもって普段の僕のルーティーンである。決して、これから同じゼミでペアを組んでいる中村さんと「武蔵野の風俗文化研究基礎1」のフィールドワークでブティックホテルなるものに向かうからでは断じて、ない。
 「あ!いたいた。今日はよろしくね!」
一瞬中村さんだと気づかなかった。いつも無造作に降ろされたロングの髪が綺麗に束ねられ、扇情的な赤い口紅がまるで僕を…「ふふ、発表写真用にオシャレしちゃった」そう、これは研究なのだ。

 駅前から歩くこと数分、「ホテルニューヨーク」が堂々たる姿で屹立していた。西洋の城郭を思わせる崇高さに、ゴクりと大きく唾を飲み込んだ。「さ、中はいろ?」と中村さんは臆することなく僕の手を握って…僕の手を握って!?予想外の展開にショートしそうな思考を「ニューヨークなのにイオニア式のオーダーが…」などと揺り戻しつつ、部屋を選びフロントを抜けエレベーターに乗り、流されるまま202号室のドアを潜った。
 「これがニューヨーク…!」
壁一面を覆う外国人女性のセクシーなグラフィティに圧倒されていると、中村さんが「でしょ?この部屋が一番面白そうだなって」と言いながらおもむろに上着を脱ぎ、複数名が就寝を共にすることを想定したであろうサイズのベッドに腰掛けた。次の途端、その美しいワインレッドの装いにすぐさま目を奪われてしまった。しかし何度も言うが、研究の一環である。
 部屋は10畳ほどだろうか、パープルのカーネーション柄の壁紙と、それに合わせたグリーンの禍々しいボタニカル柄のカーペットや寝具類。ソファの一角は、色が変わるほど擦れている。これまで何組のカップルが訪れたんだろう。

 「ねえ、これ見て」
 バスルームと部屋を隔てる壁にはステンドグラス風の曇りガラスが付いており、なんとも著しいクオリティのアルフォンス・ミュシャ風の女性が描かれている。ちなみにミュシャはチェコ出身だ。でも曇りガラス越しのバスルームなんて、、、
 中村さんはリップを塗り直そうと洗面台に向かっていた。鏡越しに、気のせいか目が合うような気が…いやいや、僕は何をしに来たんだ。アカンサス模様で縁取られた洗面台のミラーや、貝のようなウェーブがかった照明ランプは、いかにも18世紀ヨーロッパのロココ様式の印象で、このホテルが建てられたおそらくバブル期の栄華を象徴しているようだ。
 機械設備にも目を向けてみる。テレビモニターは流石に薄型だが、その下のSANYO製の冷蔵庫は、型番をネット検索しても出てこない程、ひたすら年季が入っていた。中村さんが「ビールとか飲んじゃう?」なんて、そんな上目遣いで冗談を言わないでほしい。研究中なのだから。

 ニューヨークは、結局全然ニューヨークではなく、まるで文明開花を機に花開いた擬洋風建築のように、絶妙なディティールの甘さと根源的な日本要素が混ざり合い、夢想の世界を作り上げていた。じゃあなんで「ニューヨーク」?まさか一緒に「入浴」とか…
 そんなことを考えているうち、ショートなるものの2時間が終わった。結局何も起きず(当たり前だが)、僕たちは人混みの少ない吉祥寺の街へ戻ってきてしまった。ちゃんと調査したはずなのに、この燻るような後悔はなんだろうか。

 「そういうとこだよ…」
 駅へ向かう中、小さく中村さんが呟いた。もしかしたら僕は、単位と引き換えに大切な何かを逃してしまったのかもしれない。

ホテルニューヨーク
Tel : 0422-21-1538
〒180-0004
東京都武蔵野市吉祥寺本町1-31-8
定休日 : 年中無休